【参拝記】一言主神社の初詣|にぎわいの中で「一年の始まり」を確かめた日(2026年1月4日)

暮らし・余白

1月4日。
年が明けて少し日常が戻り始める頃なのに、私は今年も、茨城県の一言主神社へ向かいました。

「毎年来ている」というだけで、参拝は少し特別になります。
お願いをしに行くというより、一年のスタートを“無事に切れたこと”を報告しに行く。そんな感覚に近いのかもしれません。


10時到着。境内はすでに“正月の熱”が残っていた

この日は10時に到着。
まだ早い時間のつもりでしたが、境内にはすでに人が多く、正月らしい華やぎと、どこか浮き立つ空気がありました。

家族連れ、友人同士、ひとりで静かに歩く人。
みんながそれぞれの「一年」を抱えて、同じ方向に歩いていく。

神社の境内という場所には、不思議とそういう“人の気配”が似合います。
にぎやかなのに、うるさくない。落ち着いているのに、温度がある。
一言主神社の初詣は、まさにそんな空気でした。


11時。参拝客の列が“長蛇”になる

そして11時。
参拝客の列は一気に伸び、気づけば「長蛇の列」と呼ぶしかないほどの人の波になっていました。

境内は人であふれ、静けさよりも賑わいが勝つ時間帯。
それでも、列が進むにつれて、気持ちが少しずつ整っていくのを感じます。

人が多いほど、「自分だけが特別な願いを持っているわけじゃない」と思える。
そしてそれは、どこか安心にもつながる。

みんな、同じように一年の無事を願って、同じように新しい一年を始めようとしている。
その事実が、妙に胸に染みました。


毎年来ているからこそ、祈りの言葉が変わっていく

毎年来ていると、参拝の意味が変わっていきます。
昔は「こうなりたい」「これを叶えたい」と、願いの形がはっきりしていた気がします。

でも最近は、まず最初に出てくるのがこれです。

  • 一年を無事にスタートできたことへの感謝
  • この先も順調であることへの祈り

大きな成功よりも、派手な結果よりも、
「今年も家族が元気で、仕事が回って、日々をちゃんと積み重ねられること」。

それがいちばん難しくて、いちばん尊い。
年を重ねるほど、そう感じるようになりました。


お札と破魔矢を授かる|“形”があると、気持ちが続く

参拝を終えたあと、今年もお札と破魔矢を授かって帰りました。

お札も破魔矢も、実用的な道具ではありません。
でも、家に持ち帰って目に入るたびに、思い出すんです。

「あの日、ここで気持ちを整えた」
「今年をちゃんと始めた」
「守られている、という前提で一日を積み上げよう」

祈りは、瞬間の気持ちで終わりやすい。
だからこそ、こういう“形”があると、日常の中で何度も立て直せる。

私にとって、お札と破魔矢は「一年の背骨」みたいな存在です。


にぎやかな境内で感じたこと|一年の始まりは、静かじゃなくてもいい

初詣というと、澄んだ空気の中で静かに手を合わせるイメージを持つ人も多いと思います。
でも、1/4の一言主神社は、良い意味で“賑やか”でした。

人が多くて、列が長くて、境内があふれるように満ちていて。
それでも、ちゃんと祈れる。ちゃんと整う。

一年の始まりは、静かじゃなくてもいい。
むしろ、賑わいの中で「自分もこの流れの一部なんだ」と思えることが、今年の私には必要だったのかもしれません。


まとめ|「今年も始められた」という実感を持ち帰る

参拝は、願いを叶えるためだけの行事ではなく、
自分の心の向きを整えるための節目でもあると思います。

一言主神社で手を合わせて、
お札と破魔矢を授かって帰るまでの一連の流れが、今年も私に「始まった」という実感をくれました。

また一年が動き出す。
大きなことは起きなくてもいい。
でも、ちゃんと順調に、ちゃんと無事に。

そう願える自分でいられること自体が、もう十分ありがたい。
そんなことを思いながら、私は境内をあとにしました。

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